にも台にも負けない毎

二人の17年の歩みを振り返って

有賀正彦

 先日、藤沢さんから「何か書いてほしい」との電話をいただき引き受けたのですが、何をどう書いたらいいのか迷いました。迷った末、自分たちの今日に至るまでの生活といったところから書いてみようと思います。

●5二人だけで生活

 は現在42歳で、妻のみどりは少し上なので正確な年齢は内緒にしておきます。町田市内の授産施設で知り合って、結婚したのは1987年のことでした。結婚と同に今の住まいに移りました。何時の間にか17年も経ってしまいました。生活を始めたころは自分たちで生活していくのだという考えが強くありましたから、時々様子を見に来てくれるボランティアの方はいてくれたものの、生活を始めて5年ほどは他人の手を借りずに自分たちだけで生活していました。

 きて着えと食、洗濯と掃除をしたら昼くになります。それから二人で電動車椅子に乗り換えて買い物に行きます。買い物は成瀬の駅前まで行っていたので1時間半はかかります。帰ってきたら急いで買ってきたパンかおにぎりをべてから洗濯物を取んで夕飯の支度にかかります。夕を食べて片けが終わると9時くになります。入浴は二人で協力して天井走行方そうこうかたリフトを使って入ります。二人が入り終わるのに3時間はかかります。当然のことながら、毎日の入は難しいために週2〜3回になります。入浴するときの夕飯は出前(か、買ってきた弁で済ませていました。

 外出は月に2〜3回、天気のいい日に歩いて町田買い物に行くくらいでした。当時は成瀬駅にはエレベーターがなく、路線バスも乗れなかったためにどこに行くにも歩(いていたのです。町田のデパートで洋服やCDを買ってくるのが楽しみであり、気らしだったように思います。二人で出かけて大変なのはやはり食事とトイレです。そのころは今よりも少しだけ動けていたので、トイレは助け合って何とかできたのですが、食事は入りにくかったり食べにくいことがあり、何も食べずに帰ってきたことも多かったことを覚えています。

●ヘルパー導入で行動範囲を拡大

 そんなことをしていたある、市役所の障害福祉課の知り合いの方から「そろそろヘルパーを入れたら?」と言われたのが始まりで、徐にヘルパーを入れるようになりました。最初のころは1回3時で週に2回から始めました。その当時は市役所から派遣されるヘルパーは家に登している人が主で、内容も家が中心だったのです。それでも今まで自分たちが全部やっていたことを一部でも代わってもらえることで、多少なりとも心身の余裕ができたことを覚えています。毎日定時でヘルパーを入れるようになったのは、1995年1月からです。自分たちだけで生活することに限界を感じ始めていたのは、その半あたりからです。ヘルパーを毎れるのにあたり、自分たちが快に生活ができ、安心してそのサービスを当然の権利として受けたいと考えました。当時自分で生活をしていた障害者の多くは、毎日大変な思いをして介助者を探していたからです。役所の影響を受けない民間のヘルパー派遣会社を電話帳で探して契しました。料を払うのにその会の役とヘルパーの名を使って、当の『全』を申しました。会に対しては金の管は自たちが行い請に基づき料を支うという条をつけたことを覚えています。

 サービスをけ始めた当とう初しょは、日にち曜ようを除のぞき平の朝と夕の2回、3時ずつとし、外したいときは事に日を伝えてオーダーするようにしました。このころから外する回が増えていき、行も広くなっていったことを覚えています。その会のヘルパーと車を使って何か旅に行ったこともありました。その後、時が経つにつれて必になる時が増えていき、外を学のボランティアに頼んだり、その中の何人かにバイト代を払って年の民の料の高い時を乗り切ったこともあります。

●これからもしく前きに

 そして、2003年4月より『支』が始まり、わが家では二人とも『居サービス』をつきに186時ずつ、計372時を受しています。一あたり12時になります。

 を言えばきりがありませんが、今のところ丁いい時だと思います。12時ヘルパーがいれば日の必とする介と家をしてもらえるし、最、成にエレベーターが付いたことも幸いしたのですが、結遠とおできるようになりました。横浜はま、新宿、池、秋、台あたりは良く行きます。今の夏も埼と千のそれぞれの実へ行ったり、友とディズニーランドへ行ったりと、猛にも台にも負けずに充した日を過ごせたと思っています。

 たち二は毎、明るく楽しく前きに生することだけを考えて生しています。これからも二で知を出し合って、自たちの意を大にして生していきたいと思ってます。

追跡レポート!?友人の地域自立に思うこと

   二宮 博之

 私が町田へ来る以前に生活していた日野療護園から、また新たに一人の男が地域生活に今年(2004年)の二月から自立の道を踏み出した。

その男は吉原日出海氏といって私よりいくらか先輩で、「障がい者解放運動」の原点的存在でもある有名な「府中療育センター闘争」を身を持って体験しているし、我が福祉開発研究センター(WDRC)の草創期から理事として活躍してくださっていた人でジャズやロックに
代表される音楽や、F1やモーターショーやミニカーが大変に好きな少しユニークなキャラクターを持った好人物である。

「施設の歴史」知る貴重な存在

 吉原氏は30年以上もの長期に渡り施設生活をしてこられたので施設生活の良さや悪さも知り尽くしている、いわゆる「施設の歴史」を知る貴重な存在であると言っても決して過言ではないと思う。本人から聞いたところでは十代後半の思春期から五十代前半の現在までの施設生活は「苦しいこともあったが、それなりに楽しかった」そうである。

私が考えるに、少し大袈裟に言ってしまえば貧困窮まりない日本の障がい者政策の無策ぶりの煽りをまともに受けた半生だったように思える。私みたいな「障がい者運動」に対して何の裏付けも持たない障がい者にとっては実にうらやましい経験をたくさん積んで来ているように感じられるのは私の欲目であろうか。

地域自立を決意してからだいぶ紆余曲折があったように聞く、施設側の思惑と本人側の意見の行き違いがあり「予定より大分もたついた」と吉原の口からも不満を何回か聞いたことを思い出す。2年前の私の地域生活移行の場合は施設側にとっても久しぶりのケースだったし面倒くさくなりそうな予感が働きいろいろ考えさせる暇を与えずに自分のペースに施設側を引き込む形でほとんど物事を事後報告で、まさに電光石火の勢いでやってしまったことを懐かしく思い出す。

選んだのは東京都府中市

彼の地域自立をサポートしてくれた団体はピュロンと言って創設まもなく、いわゆるNPO組織とは少しちがい障がい者本人達と介助者達が同じ立場で共に創り上げていくような同好会かサークル的な色合いが強く月に1回程度みんなで勉強会やこれからの方針を話し合うみたいである、介助体制も同姓介助が基本のように聞いているし、私の目には介助者達も皆個性的に感じられた。

そんな彼が地域居住のさきに選んだのは東京都府中市であった、以前は町田市やその他の市とかが多かったが、競馬場や大企業があり比較的に財政に余裕があると思われる府中市は最近になって障がい者の自立者が多く集まる傾向にあるらしい。

彼の新しい住居は京王線の府中駅と競馬場前駅の中間に位置する2DKのアパートで府中駅は新宿駅から特急でわずか20分というすごく交通の便がよいところである。以前暮らしていた日野療護園からも各駅停車でもわずか15分で着く距離です。「使い慣れた京王線をこれからも大いに利用する」と本人も言っていた。

これからも飄々と

アパートは新築に近くこぎれいな感じを受けたが訪れた感想を率直に言わせていただければいくらか玄関に入るところが狭いし、電動式せり上がりだしおまけにほぼ直角に方向転換しなければならず少し苦しい感じを受けた。他は風呂とトイレにそれぞれ簡易式リフトを付けた程度であまり改装したところはなく必要最小限に抑えてる感じでした。

以上が私が受けた相談内容や吉原氏に対する取材と新居を訪れたときの率直な感想をまとめたものであるが、なにしろ施設から出て地域社会で生活するようになってまだ半年ぐらいですから自分自身の生活のリズムを創り上げることだけで一生懸命なときで一番楽しい頃でしょう。

何も最後に脅かすわけではないが、これから起こるであろう困難にも自分自身を見失わないでいつも飄々とたくましく生活を送ってほしいと思う。                                                                                              以上

オリンピックに熱狂!歩きタバコにヒヤッ!
「相手の立場に立って」
サービス提供責任者 山田 美保


ガンバレー!! TVに向かって何度大声を出したでしょう・・・

アテネオリンピックの事です。今でもVTRには見入ってしまい、TVに向かって拍手してしまいます。オリンピック観戦のために寝不足という利用者さんの話も耳にしました。

前回の参議院選挙だったでしょうか、投票を呼びかけるキャッチフレーズ「熱くなれるのはスポーツだけですか?」 日本がメダル○個・日本勢の活躍は?・サッカーW杯日本代表・・・確かに日本人が日本人を強く意識し、一喜一憂する時はスポーツが多いのかもしれません。私自身、例にもれず・・・

 利用者さんとお出掛けするとヒヤッとするのが、歩きタバコです。手にしたタバコがちょうど子供の背の高さで危険だ、火傷、洋服を焦がされたなどのトラブルも聞かれますが、車イスを利用している方にも大変危険です。火のついたタバコを持ったまま歩く人が前方にいると煙と灰は大半、利用者さんや私が引き受ける形となりますし、人込みの中の銜えタバコは接触しないかと注意しドキドキです。車から投げ捨てられたタバコが車道を歩く利用者さんと私のちょうど足元に飛んできた事もあります。毎朝の事務所周辺の掃除でも一番多いゴミが吸殻。ステキな男性と食事に行って先に食べ終えた彼が断りもなくタバコを吸い始めた姿にげんなり・・・なんて話もありますよーぅっ!とある方に呼びかけたりしつつ。タバコは害があって・・・などと言うつもりはなく、吸う人が嫌いという訳でもありません。実際、友人のほとんどが愛煙家です。

 何かお手伝いしましょうか?と声を掛けてくださる方、街中で利用者さんに「久しぶり〜っ元気だった?」の声と共に立ち話が始まったり、外へ出ると楽しい事が沢山起こるからこそ歩きタバコでヒヤッとした事や、悲しい事が心に残るのです。

 「相手の立場に立って」。福祉の基本とも言える言葉ですが、言葉では解っているけれど常に意識して考え直す事が必要だと実感しています。日本人が日本人である事=人間が人間である事、相手がいるからこそ人間は悩み・考え・笑えるのだと思います。「人」と言う字は・・・とある先生は生徒たちに唱えていましたが、まさに支えあってこそ。

 私自身、利用者さん・ヘルパーさん・他事行所・他職種・・・みなさまあってこそ。

 家族をはじめ私に関わるすべての方々によって私は生かされていると思っています。

 相手にとって温かい場所が福祉開発研究センターとなるように、そして私自身がそういう人間であるように日々勉強。今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い致します。

Dr.F 第11回 施設と家庭とNPO

施設の性質

従来の福祉施設などは「貴方がいるから私が必要なの」、これが福祉施設という一つの枠の中で社会が成り立ってきたことです。時には父であり母であり息子娘というような役割をもったアットホームな関係装いも含めた中で利用者と職員の生活が成り立つ。この関係は毎日繰り返しの中で形成され組み立てられ築かれたものです。新たな考え方、取り組みなどを取り入れようとした時、火に熱した油に水を注いだ時のように、強く反発するのが今までの施設の性質でした。

親離れ子離れできないとは

各家庭には習慣があり、介護が必要な者が家にいた場合、その人を中心にまわっているのが現状です。それが家庭という社会として形成されており、その中で当事者がどのような立場に置かれているかは様々です。昔は世間体から障害者がいると「何者がいる」という目で見られがちでした。「この子には私がいないと・・・。私が死んだら・・・。」と不安も募ります。そして年月が永くにわたる程、家族と本人が自立出来なくなってしまうことが多くあります。この2つの例のような施設と家庭の保守的な考え方に、なぜなってしまうのか。それは弱者を受け入れない社会にあると思います。日本は高齢化社会になりました。まだ国では障害者社会参加を謳っています。しかしうたい文句とは程遠いものが存在としてあります。6年前、特定非営利活動法人(NPO)法が制定されました。それ以来、地域の中に介護保険・支援費など事業所は増えています。このような事業所が先頭になり、あらゆる行事を行う中で少しずつ枠を取り除いて行くことが大切のように思います。それが地域社会に根付いたNPOの役割だと考えます。障害者の自立は地域社会の中に出ることから始まると私は確信します。

障害者の歴史

障害者の話が昔からあります。例えば「おかめ・ひょっとこ」。面をかぶって踊りを踊るものがありますが、これは障害者の意味も持つものです。また落語で出てくる与太郎などもそうです。日本は第1次・第2次世界大戦中、大日本帝国の名の元に軍国主義の路を辿ってきた経過があります。その中で戦争に勝つには優秀な民族でなければならない(優生思想)がまかり通ってきた時代がありました。そのような背景のなかでも障害者は存在したのです。それは座敷牢などに拘束されていた者もいたし、座頭市のような視覚障害者の様に、マッサージ・お灸というような職種で社会参加をしながら細々と生計を立ててきた人もいます。しかしながら大半は世間の片隅よりもっと狭い所に追いやられてきたのが歴史的背景にあります。第2次世界大戦などは国民総玉砕を持って女性は軍事工場へ、召集令状(赤紙)が届いた時、男性は健康診断を受け戦地へ向かいました。しかし健康診断から漏れたものは戦地へは行けず、世間からは使い物にならないと見られ不名誉で役立たず者というレッテルが張られたのでした。それが=障害者。民兵がそのような家庭に毒物を配って歩いたということを聞いたことがあります。そのような者を家族に持つものは、厄介者を持つ家族という目で見られてきた経過があるのです。それは現在も社会傾向に立派に存在していると私は思います。このような歴史的背景の流れから、障害者を持つ家庭では負い目を持つことにより引き込もりがちになる傾向があると思います。

保守と革新

最近の福祉行政は介護保険や支援費などNPO法人に委託する傾向が多いように思います。そのため法人は利用者の生活を保証することはスタッフを雇用し、法人の安定を図る。それが保守的な考え方になるのでしょう。「保守」という言葉は私としても閉鎖的、他人の意見考え方を受け入れない、旧来の考え方を重んじ風通しの悪いものを想像します。「革新」とは新しいものを積極的に取り入れていくことで、物事を向上させていく意味を持ち進歩的で未来があるように思います。しかし、騒がしく落ち着かない風潮にも取れます。今後、事業所を展開させていくにあたって、保守、革新的な両面の考え方を取り入れていかなければならないと考えています。一つに利用者の生活を保証していくことには徹底したこだわりをこれからも持っていきたいと考えます。もう一つに私個人として、また法人として出来る事は取り入れていき、新しいものに変えていきたいと思います。NPO法人は今までの施設や家庭の代わりではなく、当事者本人と共に歩いていかなければならない団体だと考えます。そういったことを踏まえ、自立していく企画を立てることが重要と考えます。これからもフロンティア(開拓者の精神)を忘れないことを期待します。みなさんの所はいかがですか?

ウェルウェーブ通信第12号

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