「立川への派遣」こんにちは田中雄夢です。現在、福祉開発研究センターは立川への派遣を開始しています。私はいわば立川エリアと町田の事務所のバイク便のようなものでしょうか・・。立川エリアの皆様とは何かとご縁が多いかと思いますが、町田の皆様には「ん?誰だ?」と思われる方も多いかもしれません。それもそのはずで、立川エリアで1日が終わる日もあるため、町田の皆様には馴染みが薄いかもしれません。おかげさまで立川エリアも徐々に充実してきました。これも福祉開発研究センターに携わっておられる方はもとより、直接的には携わっておられない方も含め、利用者さんヘルパーさん関係なく皆さまのおかげだと痛感しています。利用者の方々には、在宅生活、自立生活の苦労話しに限らず笑い話し等を含め、いろいろな話を聞かせていただき、勉強させていただいています。今後とも北部・立川エリアの充実そしてヘルパーとして頑張ってまいりますので、よろしくお願いいたします。

●強い薬で苦しむ

さて退院してから2ヶ月半もたったころから体に変化が出始めました。それはボトックスが完全に切れ始めたという証拠でした。緊張が強くなり体の動きが悪くなりました。左手が上がらなくなってセルシンと言う薬が増えたのです。この薬は前も飲んだ事がありました。けれども強過ぎてやめました。その事をドクターに何回も言ったのですが「もうボトックスが使えないのでこれしかない」と言われ、飲みなさい、飲みなさいと押し付けられました。しかし飲めば飲むほど体が動かなくなりました。思考回路も鈍くなってきました。薬を変えてほしいと事あるごとに言ったのですが聞き入れてもらえませんでした。辛く悲しい日々が続きました。体がだるくて呼吸が苦しくて一日の半分以上ベッドで横になっていました。
 何も出来なくなりました。それでもドクターは薬を変えようとはしませんでした。

●活発な自分を取り戻す

2ヶ月半もたったころいい加減嫌になった私は知り合いに付き添われて子供の病院に行きました。そこのドクターから「セルシンは強いので今迄飲んでいるテルネリンは1日6個までは飲んでも大丈夫です。生活に合わせて工夫をしなさい」といわれた時私は目からうろこが落ちたような気がしました。今までドクターの言うことに逆らうことも多かったのに今回のセルシンのことは自分の考えの無さに反省しました。
 その日から自分で調節をはじめました。しばらくは大変なときもありましたがセルシンを止める事によって体が少しずつ前にもどってきました。まず、眠気が無くなり、呼吸も楽になりました。何もやる気が無かったのが活発な自分に戻りました。けれどももう昔のような強い緊張は無くなりました。

 そして私の体はだんだん落ち着いてきました。また2ヶ月もたったころ呼吸が苦しくなりました。今度は何が原因なのか自分でも考えました。テルネリン5個は多過ぎるかなと思いドクターの許可をもらい3個に減らしました。しばらくして体は楽になりました。

今でも転んではいけないし、体に衝撃を与えてはいけないのは変わりありません。そしてこれから私はどうなっていくのか?と言う不安を抱えています。しかし私はまさに命がけの首の手術を受けることによって奇跡的によくなりました。そのおかげで人生観が変わりました。病院やリハビリ、薬が嫌いだった私が、リハビリに通い薬を飲みながらも自分にできることが多くなれたことを嬉しく思います。 (おわり)

貴重な闘病記を寄稿いただいた山口さんには改めて御礼申し上げます。
ありがとうございました。(編集部)

「枠付けられた生活」への危機感
障害者自立支援法の本格施行を迎えて


 2006年4月から障害者自立支援法が施行されました。まずは4月1日から自立支援医療や利用時間数の1割負担の導入。そして10月1日から本格施行を迎えました。3年前にさかのぼって考えると、支援費制度、その前は事業委託制度というかたちで、ここ数年で我々障害者の日常生活が大きく変わりました。また、財政難と高齢化社会に後押しされるように高齢者福祉法から介護保険が始まりました。そして今回介護保険との完全統合に向け障害者自立支援法が導入されたわけです

 税金を使うサービスは安易に利用できないようにガイドラインが設けられています。それが高齢者の介護保険でいう要介護度、障害者であれば区分といった審査があり、その他に24時間の生活を縦割りに割ったような時間数、サービス内容を細かく分け、枠付けられた生活が強いられるわけです。
施設生活の経験が長い私はこのような`枠付けられた生活`を強制する法律に直面すると、どうしても収容施設に管理されているような危機感に駆られます。施設生活は24時間職員に監視され1日のサイクルの中に食事や排泄、起床、消灯等が強制されてきました。強制されるのが嫌で施設から自立生活を始めたわけですが、ここ数年の地域福祉サービスを受けている中で自分が大規模施設の中で監視され管理されていくような気がしてなりません

 歴史的背景から考えると、戦時中は「障害者は戦争に参戦できないから非国民」と言われ、障害者を持つ家族は世間の片隅に追いやられていました。障害者のいる家庭に民兵が回って「障害者に困ったらこれを飲ませなさい。」と毒を配って歩いたという話も以前先輩から聞いたことがあります。そして、障害者は醜い者、邪魔者扱いされて大規模施設に収容され、男性も女性も非人道的な扱いを受けて
いたのです。そのような歴史を二度と繰り返すことのないように大規模収容施設反対を訴えてきた私達にとって、今回の障害者自立支援法も手を変え品を変えまた同じようなことをするのかといった感想です。                                

 私達は、障害者の生活は`点`ではなく`線`として考えます。それが、障害者の生活があたかも`点`であるかのごとくに枠付けられた生活を強制するこの障害者自立支援法・・果たして本当に障害者の自立生活を支援する法律といえるのでしょうか。私達福祉開発研究センターは、障害者の真の自立生活実現を目指し、障害者一人一人の生活の質を向上させ、個人としての尊厳を高めていけるように今後もさらにヘルパー派遣事業に力を入れていきたいと思います。                                        
                       理事長 藤沢 由知
                                                  

●コミュニケーションは介護の基本

 このエッセーを書く今は2006年10月下旬、来週で11月になろうとしている頃、福祉の世界では未だ障害者自立支援法が全面的に明らかにされていない状態です。本来なら障害者自立支援法に関するテーマでいきたいところですが色々なところで皆さんが書かれているので、敢えて違うテーマで書きたいと思います。今回は「コミュニケーション」というテーマで書きたいと思います。コミュニケーションは介護をする側、受ける側にとって最も基本的で大切なものです。例え言語障害があったとしても残動機能によって普段日常のなかで行なわれている行為だからです。

私が以前在籍していた成人の施設では60人の障害者が生活していました。そして常に介護職員が8.5人から10人ぐらいで介護をするといった体制でした。だいたい一人の職員が6人の障害者の介護にあたるという計算になります。しかしながら、この計算は施設の中でも最も「最高」の処遇とされており、病休、有休、代休等が入ればこの計算はあっと言う間に崩れてしまいます。一人の職員が15人、20人の介護にあたらなければならない状況もありました。例えばナースコールを鳴らしても部屋にすぐには来てくれません。そのような時は「何やってるんだよ!」と苛立ったりしますが、普段からコミュニケーションをとっている介護者は「すまないね、もうすぐ遅出の職員が来るから午後から買い物でもいこうか」等と提案してくれたりします。それが例え現実に叶わなかったとしても気持的に許せるものです。対照的にコミュニケーション不足の介助者は不満そうな顔をして用を済まして無言で去っていくといった具合でした。

●好かれる介護者と嫌われる介護者

 皆から好かれる介護者はテキパキと体を動かし、私達の要求に応えてくれました。そして嫌われる介護者は私達の要求に対して無視したり、忙しいといって要求を聞き入れないまま勤務が終わる時間になると、真っ先に帰ってしまうといったものでした。職員も利用者も施設の中では最低限の一日の流れに沿って行動しなければなりません。それは利用者の起床介護、朝食介護、排泄、昼食、そして入浴の日には入浴、夕飯、就寝といったことです。そしてプラスアルファ利用者個人がやってもらいたい様々な事があります。介護者も個々それぞれキャラクターがありますが、仕事ができる介護者、利用者から好かれる介護はそれぞれ皆利用者さんとコミュニケーションをとっている人達でした。やはり人間対人間の関係ですから話せばお互いに理解しようという努力が仕事を円滑にし、利用者もそれなりに要求を満たされることになるのです。一方仕事ができない介護者、利用者から嫌われる介護者は仕事に来ても何やってるんだか分からない仕事内容で、利用者とのコミュニケーションも不十分でした。施設の中ではこのような感じで利用者から好かれる職員、嫌われる職員が確かに存在していました。

●「自分はこうしたいんだ」

そして施設から在宅生活に移ったわけですが、介護者との関係は施設のように複数の関係ではなく一対一の関係へと突然変わったのです。私は24時間の介護体制ですから一日二交代だとして10時間以上マンツーマンなわけです。最初は介護するほうも受けるほうも何をどうしていいか分かりませんでした。だからこそ様々な話をしたり聞いてきた経過が私にはあります。それしかできませんでしたし、話をすることが相手を知る一番の手段だと今も思います。そして自分を知ってもらう上でも話をすることが大切だと思います。例え言語障害があったとしても「自分はこうしたいんだ」という迫力を持っていれば介護者はきっと聞く努力をすると思います。
 
 支援費制度があり、今回は障害者自立支援法が施行されました。そういった中で障害者の日常生活の身近な問題を私はエッセーでいくつとなく書いてきました。自分は障害者であり障害者という立場から発想をしてきましたが、派遣されてくることが制度上当たり前になった今日、利用者のほうから自分を理解してもらおうという努力が足りないのではないかと感じることが多くなりました。

 

最近よく聞く話では、事業所から派遣されるヘルパーさんを気に食わないからといって突然辞めさせたり、毎回同じことを聞かれるからといって癇癪を起こしヘルパーさんに物を投げるといったこともありました。

お互いにもっと余裕を持ったコミュニケーションがとれたらと思います。あなたはどうでしょうか?

●もう少し勉強していたら 

 オレ達の学年の仲間は、オレの口から言うのも可笑しいが割合に出来が良かったほうだと自分たちも密かに思っていたし、周りの人達からもそのように思われていた節がある。その証拠に学年の約半数を超える仲間(障がいの程度はさまざまで割合軽度の人が多かった)が一般の普通校に転校・入学して行ってしまったのである。

 当時のうちの高等部のシステムは、中学三年の終わりにあった進級試験による結果によって能力別に分けられるシステムだった。その結果どういう訳か勉強が出来るほうにまわされてしまったのだ。オレとしてはどちらかと言うと、当時は勉強よりなにか自分の身体を使って表現できるものを探していた時だからである、今になって思うことだが「もう少し勉77強していたら」と考えるが自身が選んだ道だから致し方ない。

しかもそのクラスは学校か開校して以来初めての珍事として、今も語り種の一つに挙げられているらしい男性だけ7人のクラスが出来上がってしまったのである。

●味気ない男性だけのクラス

 クラスの仲間もオレも皆で、実に味気ないというか情けなさを味わったことを昨日のことのように鮮明に憶えている次第である。おまけにその男性だけの7人がいずれも一筋縄ではいかない個性的な連中ばかりで、授業を集団で平気でボイコットしたり放課後の掃除はしょっちゅうサボる有り様で、新任の担任の先生を困らせて、その担任の先生がモクモクと一人でモップ掛けをやらせてしまったことを思い出したのだ。

中学時代の鮮烈な体験がなかなか忘れられずに、それからも相変わらず女性への関心は一向に衰えなかったのである。今度は同級生に手をだしたのであるが、これもたいした大事にならずに何とか切り抜けたから要領の良さは天下一品だったと、今でも思う。

高校へ入学すると同時に当時は実社会に出た時のことを考えて《職業科》という特別な枠が週に六時間も設けられていた。全部で十科目ぐらいあって自分の好きな科目や興味がある科目が選択できる仕組みになっていた。

オレは勉強が苦手と言うより好きなほうではなく、どちらかと言うと自分の体を使ってなにか表現する手段を見つけたかったので迷わずに美術コースを選んだ。その決断が後々のオレの人生を大きく左右するなんてこの時点ではとても誰も想像すら出来なかったと思う。

●デッサンテストで奨学金を得る

高校一年〈1969年〉の秋口にオレの将来をまさしく左右するような決定的なことが起こるのである。それはある日突然に降って湧いてきたようにもたされたし、本当に『寝耳に水』という感じだった。それは当時あまり聞いたことのなかった〔世界身体障害芸術家協会〕という口と足だけを使い絵を描く人達の集まりで全世界的な組織のところであった。  

そこのデッサンテストをいきなり受ける羽目になってしまったのであった、当時のオレはまだ将来絵を描いていくなんて考えていないし、どうせオレは付け足しだからという思いが強かったので本当に気楽に課題の花のデッサンに立ち向かうことができ約10分あまりで描いてしまったのである。その日は自分でも調子よく描けたほうかなという記憶とその協会の人が興味を示していろいろ質問していたことはあったが、このことがオレの将来を決定付けるとは誰も思っていなかったと思う。

そこには2年先輩のM,K,という女性が大いに関係していたのである。そのM,K,という女性はクレパスというものを使い、手と足の両方を使って巧みに描く尊敬できる先輩であった。その先輩があと僅かで高校卒業をひかえたこの時期の秋に卒業後の道筋をつけようと考えた先生が見つけてきたものらしいのであった、だが皮肉なことに先輩は「手を使う」その他の理由で採用されずに付け足し程度で何の欲もなかったし、まだ本格的に絵を描き始めて僅かの時間しか経っていないこのオレがいきなり奨学金をもらう立場になった訳で本人が一番ビックリしたことは言うまでもないが、他に両親・先生・友達らが驚いたことを懐かしく思い出した次第である。

●2ヵ月半吐き続ける

 再び入院しました。薬の調整やリハビリのおかげで体はかなり良くなりました。けれどもMRIの結果はあまり良いものではありませんでした。頚椎の3〜6まではセラミックでしっかり固定されているものの2〜3の間が非常に狭くなっていてここの部分は呼吸器を支配する所なので少しの衝撃でも呼吸停止になるとか寝たきりになるとか散々言われました。そして緊張するのが一番悪いのでボトックスは続けましょうと言われました。その後右手に10箇所に一気にボトックスを打たれました。その後30分後から痒みと初めて吐き気に襲われました。そして2ヶ月半吐き続けました。
 食べることが好きだった私ですがあの時は食べる事が辛かったです。少しずつ1日に6回も食べなさいと言われ本当に辛い思い出となりました。けれども時の流れと共に食べられるようになったのです。そしてもう絶対に転べないしボトックスも打てないので退院後の生活について話し合いをしました。畳の上の生活だと転ぶ確率が高いので車椅子からベッドの生活にしなさいと言われ電動車椅子の小さいのをもらえるようにしていただいたり、絵を描く道具や生活に必要なものをリハビリ科の先生方が整えてくださいました。けれども時間がかかるので退院をしてからしばらくはとても不便な生活でしたが良くいろんな相談にのって下さったのはリハビリ科の先生方でした。
 そして退院してからしばらくは体の具合もよく食事も自分で食べる事が出来ました。いろんなことが手をつかってできることが嬉しかったように思います。

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