ビンゴゲームに夢中!!
日頃の感謝を込めて食事会を開催しました
当福祉開発研究センターは利用者さんへの日頃の感謝と相互の交流を図る目的で、昨年に引き続き二回目のお食事会を5月26日に行ないました。利用者19名スタッフ12名が集い、昨年に比べ利用者さんだけでも倍以上の参加をしていただきました。前回は事務所の中でお弁当を食べましたが、今回は参加者が増えたこともあり、ファミリーレストラン「とんでん」で行ないました。天気は曇り空で今にも雨が降りそうな感じでしたが、降られることなく送ることができました。「とんでん」には車椅子用トイレも備えられていて、余計な心配をすることもありませんでした。和食レストランということもありメニューは、おそば、天ぷら、お寿司などで、メニューを見ているだけでヨダレを垂らしそうな美味しそうなものばかりでした。いや、勿論実際食べてみて美味しかったです。
そして、食事が終わった後は事務所に集まってビンゴゲーム大会を行ないました。景品はフィギア、ラジコン、お菓子等、豪華景品ばかりでした-・・・(笑)。実はこの景品・・・私がUFOキャッチャーで取ったものばかりなんです。しかし、皆さんの顔つきは真剣そのもの!ビンゴゲームに夢中になっていました。有り難うございました。
また来年の食事会でもビンゴゲームをやりたいと考えています。
そのためにもUFOキャッチャー頑張らなくちゃねぇ〜。 (理事長 藤沢由知)
第14回
〜〜〜〜〜流星になった友人〜〜〜〜 幼なじみの悲報に接して
●出会いは東京オリンピックの年
先日幼なじみであった友人が亡くなったという悲報が私のもとに届いた。
今回は彼との思い出、また彼が生涯を通じて残してくれたものについてお話をしたいと思います。
1957年7月生まれ。享年48歳。肝機能障害のため2006年4月2日死去。彼との出会いは東京オリンピックが開催された1964年、私も彼も幼少の頃、機能改善病院でのことでした。当時二人とも家族から離れて暮らすことが初めてのことなので早く家に帰りたいと泣いていた事を昨日のように思い出します。まじめな彼はリハビリも一生懸命やりました。それにつられて私も頑張りました。二人は良きライバルとしてリハビリの相乗効果をあげ、競争したことを覚えています。しかし小学校4年生の頃、互いの家庭環境から顔を見ることさえままならない年月が10年ぐらい続きました。そして成人の施設において偶然にもルームメイトとして10年ぶりの再会を果たしたのです。また良きライバルというかたちで関係が再び始まったのです。
●30年前のヘルパー募集とは
今度はどんなライバルかというと、大きなことで言うとどちらが先に施設を出て自立生活をするかということです。この競争には残念ながら私は5年も遅れをとってしまいました。30年前は介護とかヘルパーさん募集とかそんな内容のチラシを撒くと「ヘルパーさんって何ですか?」という問いかけを街頭で尋ねられたものです。しかし、彼氏は障害者運動団体や市民運動団体の支援をかりて自分の生活を作っていったのでした。私がなぜ自立生活を彼氏より5年も遅れをとってしまったのかという理由は、臆病だったという一言に尽きるのだと思います。
1960年代から70年代、社会的には様々な問題が渦巻いていました。60年には日米安全保障条約の改定。70年代は学園紛争、そして成田空港反対闘争等。このような大衆運動が沈下し始めたのが80年初期の頃でした。しかし一部ではまだ狼煙を上げている者も少なくありません。このような問題は反国家体制を謳ったものでかなり政治色が濃いものでした。その他公害問題、裁判闘争などがあり、当時このような状況の中、多くの仲間の障害者、そして友人である彼もまたこの動乱の流れに入って自立生活を始めたのでした。
●自立生活を巡る議論で対立
しかし彼氏は好んでこの動乱の中に入っていったのでは決してありません。当時、障害者は重度であればあるほど自立生活を可能にするためにそのような運動に参加をすることが求められ、それにより介助者を確保し自立の一歩につなげていました。彼氏もまた障害者の自立の大切さを訴えるため、敢えて自ら関わることにより多くの賛同者、生活支援者(ボランティア)を集めて生活を築いていったのです。
来る日も来る日も毎日のように街頭で活動の意義をアピールするためのチラシを配っていました。集会が長引き最終電車で帰って来ることもしばしばありました。時には機動隊に追っかけられボロボロになったということも聞きました。そんな話を聞くたびに障害者の自立生活について互いに議論し合ったことが思い出として残っています。私はその頃施設に残っていたので大変さを知らず、理想論を語るのみで彼氏とよく対立したことを覚えています。しかしそのような激動の中を生きた彼氏はいつもハツラツとしていたように見えました。
彼氏の身近にいた関係者達は、政治色の濃い運動を長期間続けるこで個人の人柄や考え方が失われてしまうのではないかと心配しました。一般社会の中で生きてきた人であってもこのような集団行動の中で常に正しい状況判断するのは非常に難しいことです。だからといって家庭や施設に閉じこもっていたらおそらく様々な経験をすることも数多くの人達と出会うこともなかったことでしょう。30年という時代の流れの中で彼氏は自分なりのスタンスを取りながら大勢の人達と関わりを作り自立生活を可能にしていったのです。そういうことも考え合わせてみた時、彼氏の選択は間違ってはなかったように思います。障害者であることによって閉鎖的な施設や家庭環境の中に置かれ一般社会から隔絶されてしまうようなことは絶対あってはならないことです。
彼の死を通して改めて色々なものを考えさせられました。もし誰もがこの世に何らかの使命を帯びて誕生したのならば障害者も特別ではないはずです。誰が決めたかは分かりませんがもし強者と弱者があるとするならば、彼氏は弱者として全力で弱者の立場から発言し提案していたのではないかと思います。最近では地域ぐるみで高齢者や障害者をなんとかしようとする政策ですが、間違いが生じた時に地域ぐるみで弱者が隔離されてしまうのではないかという危機感をおぼえるときがあります。彼氏は正義感の強い男でした。これからもウルトラマンが好きだった彼氏を忘れることなく彼氏が生涯を通じて残してくれたものをしっかりと心におさめて、自分に与えられた使命を果たせるよう頑張っていきたいと思います。
オレの天真爛漫な半生記
第3回
かわいい弟みたいな中学生?
二宮博之
●短気から気長に大変身
小学部を何とか卒業して、一応曲がりなりにも形なりの進級試験を受けて無事に中学部に進級できたのである。その頃には精神的にもだいぶ落ち着きを取り戻していた。
かんしゃくを起こす短気な性格は猛反省して何とか克服して直したが、今度は逆にスゴク気長に大変身してしまったのである。短気から気長へどちらにしてもどうしてオレはこう両極端なのであろうと相当悩みに思ったことを思い出すのである。
時を同じくして、学校内でオレ達の身の回りの身体介助をする介助員制度が創設された(それまでは主に母親だったが、中には個人的に専門の人を雇っている方もいた)。新しく配属された介助員の中にはもちろん男性も女性もいたし出来たばかりの制度なので割合みんなが熱く使命感みたいなものに燃えていたように思われた。
●年上の女性に初恋
そんな中に幼いオレの目から見てもほかの人から見ても、きれいな大人の女を感じさせる気がかりな存在の女性がいたのだ。要するにその女性が大好きで恋心を抱いたのだった。
それまでも何かにかこつけてたわいない用事を作ったり話したりで、接近するきっかけを作ろうとしていたが、その女性のほうも気さくで誰からも好かれるほうだった。彼女のほうもこのオレのことを「かわいい弟みたいな存在」だったと思っていたらしかった。彼女は年ごろでいうと22、3歳で介助員になったと思われた。このオレには9つ年上の女性だった。
●口で絵を描き始める
同時に美術の時間に口に絵筆をくわえて絵を描き始めた頃であった。それまでは手で描こうと頑張っていたがどうもうまくいかないので、自分から申し出て口に絵筆をくわえて描かせてもらっていた経緯があった。最初から案外自分なりにうまく描けたことをうる憶えでおぼえているのである。
同じ頃からオレは「まだ形は決まっていないが、将来はなにかオレにしか出来ないことをやりたい」という気持ちがムクムクと強く思い始めた頃であった。今から思うと、この頃までにオレの素地というか性格の大半は既に出来上がってしまったのではないかと思うのである。
活字とパソコンで頭痛の毎日?
「 サービス提供責任者になって 」
茅野優子
私が福祉開発に入社したのは2003年の4月でした。初めはヘルパーの仕事がほとんどで、さらに半年以上の育児休業をとり、結局本格的に仕事に就いてから1年半というまだまだひよこです。
福祉開発に来る前はというと、障害をもった方の授産施設で働き、退職したところに運が良いのか悪いのか・・・今の理事長と出会いヘルパーとして働き始めました。なので、理事長と知り合ってからはもう10年近くになってしまいます。
そんな所から急に始まったサービス提供責任者という仕事。今まで現場が主体で、体を動かすことしか脳のなかった私が・・・。右も左も分からず、活字とパソコンの連続で頭痛の毎日。サービス提供責任者としての仕事とは何なのか、ヘルパーの頃の気持ちは持っていてはいけないのか、ヘルパーの仕事がしたい、悩むこと○○○回。。。未だにちゃんと答えは出ていません。
でも、在宅で暮らしている利用者さん達の話を聞き、また多くのヘルパーさんの話を聞いているうちに・・・。何も特別なことを考えなくても良いのかな?と思うようになりました。自立支援法とかいうグッタリするような内容や、書類などの仕事は先輩たちに聞きながらやるとして。1つ思うのは、利用者さんが心地良い、快適な生活が出来るように、またそれを手助けするヘルパーさんが気持ちよくお仕事が出来るようにサポートしていければと思っています。そこが一番難しくて、ご迷惑をお掛けすることも多いのですが・・・。
なので、皆さんの言葉や意見は一言一言とても大事でした。「ハッ」と気づかされたり、「う〜ん」と悩んだり、アイディアに感心したりetc。一つ一つ自分の身になっていますので、恥ずかしがらず、我慢せず、気になる所はぜひお伝え下さい。ご迷惑お掛けすることも多々ありますが、利用者さん、ヘルパーさんが明るい生活が出来るように日々努力して、サービス提供責任者という仕事をもっと理解していきたいと思っています。
第2回
脳性麻痺による二次障害との戦い
山口かほる
●「私たち足があるでしょう?」
鼻が痛いと思ったときにはすべてが終わっていました。ああ! 私は生きていたんだと思い嬉しくなりました。痛みも前から痛かった首の部分だけでした。頭も痛いかと覚悟はしていましたがぜんぜん痛くなかったのです。そしてICUに入りました。皆が面会にきました。「私たち足が有るでしょう? 押しつぶされていた神経が倍になったんだって。良かったよね」と喜んでくれました。ICUの看護師さんはとても優しく丁寧でした。私はうつらうつらしながら器械に命を委ねました。器械の音はアニメの中に出てくるような感じのものでした。夕方リハビリ科の先生やボランティアも面会にきてくれました。その頃になると意識もはっきりしてきました。
夜中に吐き気に襲われました。胃液を吐きました。ドクターがきて胃の中に管を入れようか?と恐ろしいことを言ったのです。看護師さんが「先生、そんなことをしたら余計に気持ちが悪くなりますよ」と言ってくれたので私はほっとしました。
●動かなかった手が動き出す
さて次の朝、看護師さんが清拭をしてその後、術衣から浴衣に着替えさせてくれました。その時に右の手に自分の意思が伝わることに気づきました。それまでは自分の意思では伸ばせなかったのに浴衣を着せてもらう時に伸びたのです。嬉しいと思いました。ドクターに話したら「言葉もはっきりしているね」と言ってくれました。その後CTを撮ってから病棟にICUから戻りました。動くときには必ずナースコールを押して体交換をさせてもらいました。動いてはいけないし、呼吸器を外したばかりなので痰が絡むし声が大きく出ないし、傷は痛いし、熱はさほどでは無かったけれども寝たままと言うのは大変辛かったように思います。
けれどももっと辛いことが待っていました。術後7日目に「ベッドの上に起きて自分でご飯を食べて」と言われました。自分の座位を保つだけでも辛いのにその上にご飯を自分で食べると言う動作はまさに死に物狂いの格闘でした。リハビリの先生の協力もたくさん受けました。ベッド上で座位が保てるように三角クッションやリクライニングの車椅子なども手配してくれました。そのほかにも看護師さんに理解を求めていただいたり、とにかくリハビリ科の先生方の応援のおかげで日々が過ぎていきました。体が楽に動くようになったのは術後しばらく経ってからでした。トイレの手すりに左手でつかまれるようになりました。次にトイレのリモコンでお尻が洗えるようになり、ナースコールも押せるようになりました。左手で絵筆を持ち描けるようになったのです。やがてパソコンもできるようになりました。フタツキのコップを持ち、水を飲むことができるようになりました。いままで足でしかできなかったことが手でも出来ると言うことは私にとって世界が広がりました。そしてリハビリでパソコンを習いました。電動車椅子も足ではなく手を使うようになりました。
●転倒して再々入院
そして緊張が強くなって首に負担がかからないように左右の手にボトックスを打たれました。長かった入院生活を終えて退院しました。在宅に戻った私はしばらく何も無く元気に過ごしました。けれども退院してから1月半もたった頃から、たて続けにヘルパーさんと歩いた時に転んでしまったのです。そのショックとボトックスが切れた事もあって体調が悪くなりました。そして再び入院しました。ウェルウェーブ通信 第15号