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ウエルウエーブ通信第1号 1999年9月5日発行
目次
こんにちは、皆さん! 福祉開発研究センター 発起人代表 藤沢由知 ニュースレターの創刊にあたり、ここに挨拶できることを大変嬉しく思っています。この1年間、センターを作る呼びかけ人として動いてきました。発起人を募り、月1回の話し合いの中でここまで進んでこれたことは、私にとってさらなる明日への活力となることでしょう。 このセンターは、今まで障害者として周りから与えてもらうことしかなかった私たちが、福祉機器を自ら発想しそれを形にしていくことを目的とし、また、その目的を中心に幅広い活動をしていきたいと考えています。市場における福祉機器の実態調査・福祉機器の研究開発・福祉機器のアイディア募集・メーカーからの情報収集・諸外国における福祉機器事情の情報および調査研究・ニュースレターの発行による情報発信・福祉機器の実用新案の開発・福祉機器の利用者の生活相談・誰もが集える場所づくりなど。果たしてこれだけのことができるかといわれれば、今は自信がありません。しかし、行動を起こすこと、やり続けること、夢を語り合うことが、今さらながら必要なことではないかと思うようになりました。 私は、17年間、自立生活を送っています。療護施設から出た時点で自分の生活をする目的は達せられました。しかし、その後これから何をしていこうか、また、何がしたいのか、年を追うごとにわからなくなってきたのです。最初のうちは、模索中なんてごまかしていたのですが、最近は本当にわかりません。私自身の経験からいうと日々を送る生活の中で何かやらなければならない1日というのは非常に充実した1日が送れるのですが、予定もすることもない1日というのは非常につらい1日となってしまいます。私は、生活というものは1本の線と考えました。そして、充実のある1日の線を選ぶことにしました。そこで、センター設立の行動を起こしました。 皆さんの参加を求めています。 1957年5月30日生まれ、双子座、血液型はBかまたはA、好きなもの、お酒、タバコ、趣味は多様、好きなタレント、藤原紀香、お嫁さん募集中!!
リレーコラム「施設にいきる」 第1回 多摩療護園 忍田幹雄 20年間生活した東京都多摩更生園1階の北1−2を離れて4月20日に引っ越し、徒歩で新しい建物へ向かう。名前も変わり、東京都日野市程久保872 多摩療護施設棟4階27。以前には同居人に夜中でも起こされることもあり、病気になったこともありました。今では一人部屋で開放的に過ごしています。6月の旅行も楽しみにしていました。 6月12日、土曜日。夕食が済み7時からお風呂に入る。力持ちの介助者が一人で抱きかかえる。車椅子から持ち上げる。一気に右へ振り返りながら2歩下がる。タイルの壁に足を強く打ち据える。ぬれたタオルを床にたたき付けるような音の中に、割り箸が裂けるような音が、大きな音がした。介助者も慌てて看護を呼ぶ。少し間をおいて、足が折れたようなので救急車を呼んでくださいと介助者がいう。 本人、痛くて声が出ない。上半身から冷や汗。少しも体を動かせない。看護婦さんがくる。状況説明をする。壁にぶつけて足がぶらぶらになっているので固定するようにお願いする。シーネを巻いて固定してくれと頼む。「ちょっと待っててね、道具を取ってくるから」とテーピングのテープをかかとにまく。アドフィードをまく。包帯をまく。上半身をかるく洗い、そのまま部屋へかえる。救急車は呼んだものと思っていた。 古い職員が容体を聞きにくる。日本医科大学付属多摩永山病院を指定する。内科医のことやいろいろ聞いた揚げ句何もせず、「明日は日曜日だし車を出せないから月曜日に病院に行きましょう」という。よりによってその日は1年未満の新人夜勤者ばかり。不安、痛みで眠れないまま、静かに翌朝まで過ごす。洗面もせず食事をせず、うとうととしたまま昼に至る。 「お昼を処分する」というスピーカーからの親しい職員の声で目を覚ます。この時初めて怪我をしていることに気づき、驚いていた。看護と夜勤者は怪我をしたことを伝えないまま帰宅していた。何も伝えられていなかったので、朝食も無言のまま処分されていた。 これが実態です。職員の義務感はないのかっ!業務過失じゃないのかっ!管理責任はないのか!
ドクターFの自立生活ワンポイントアドバイス 第1回「枠のない施設」 現在、全国各地に自立生活センターが設立されています。これから施設を出ての生活を考えている人たちにとってはまだまだ問題がありますが、障害者本人がセンターに施設から出たいという要請をすることで介護体制から住まいまで準備してもらえる場合もあるそうです。 施設や家から離れて自分で生活を作ることは良いことだと思います。しかし、出るためにはいくつかのハードルを越えなければなりません。たとえば家族との関係、施設を出るための手続き、生活資金の確保。それら全てを周りの人間が補ってしまうことは当然本人のためにもよくありません。サポートする側の役割はあくまでも当事者と一緒にひとつひとつ生活を作っていくことであり、その点をはきちがえると、「枠のない施設」、管理する側される側(職員と利用者)といった力関係にもなりかねません。そのようなことがないよう注意をしてもらいたいと思います。 次回もまたこの話の続編を書きたいと思います。コラムでした。
私見 介助と介護の違い 日野療護園 二宮 博之 普段何気なく意味もあまり考えずに使っている言葉の中にも色々と考えさせる問題が実に多く潜んでいる物である。 一口に「介助」と「介護」と言ってもあまり違わないように受け止められるかも知れないが、最近、私としてはある種の"こだわり"を持ってみたいテーマなのである。 これまでのあゆみ 編集部 「福祉研究開発センター」は、98年7月に第1回発起人集会を開き旗揚げした。この時の出席者は藤沢、大石、二宮、忍田の4名で、場所は日野療護園の食堂であった。既に「障害者の視点からの福祉機器の研究・開発」と「NPO法人化」に向けた事業の方向性は明確に打ち出されており、その後は毎月1回発起人集会を開催して議論を重ねた(現在は会員会議として開催しており、発起人集会から通算して計14回開催)。 同年10月には藤沢より企画案、事業計画案、設立趣意書が提起された。また、当時の主要な議論はこうした事項に加え、団体名称の決定であった。事業内容、目指す方向、遠景としての理想社会、障害者と健常者が集い事業を興そうという心意気、それらを一語で表現しなければならない。そうした思いが発起人たちの気持ちに強く現れていた。 99年1月、それまでの暫定名称であった「アクセスウエルフェアー福祉機器研究所」を廃名し、新たに「福祉開発研究センター」を団体名称として決定した。団体名称が決まると、次は具体的な事業に向けた取り組みが活動の焦点となった。具体的には、事業の企画・実施と定例学習会の開催、そして財政基盤の確立であった。 事業面では、5月の会議において主要な事業の柱としてニュースレターの編集・発行企画が承認された。学習面では、98年12月の会議で藤沢、大石が「地域の移送サービスの現状と課題」について、また99年1月には高橋が「障害者と家具」について研究発表を行った。財政面では、1月24日に99会計年度予算案が承認され、当面の財務体制が完成した。 このように、この1年間は月1回の活動をいかにルーティン化させ、将来を見通すかに終始した。今後は、より有意義な事業の積極的な企画と、事業の複線化を通じた組織・財務体質の強化が課題となっている。
1年遅れの国際福祉機器展みてある記 日野療護園 吉原日出海 私は4年前から福祉機器展に行っています。そこで感じた事はハイテクを導入された機器が多くなってきていますが 今のハイテクノロジーの技術の進歩は目まぐるしく変わっています。でも福祉機器の方はそう早い変化は見られません。特にハードの面に対してはだいぶ遅れています。 私が見てきたのは主に電動車椅子とハンディキャブです。電動車椅子にはコンピューターが使用されているところはメインコントローラーの一部分に使われているだけです。またハンディキャブの方ですが普通のワゴン車に比べて価格が高いバリエーションが少ない。これは今の現状では無理な事だと思いますが我々障害者でも車に乗る楽しみ自分で運転する必要性があります。そこでジョイステェックカーがつくられたと思います。これは最近アメリカフォード社とクライスラー社が障害者用に開発された車です。これはハイテクを多数使用されていると思います。この車は現在日本で何台か使っている人がいるそうです。また何年か前にドイツのメルセデス社のミニバンにジョイスティックカーありました。 我々障害者にとってハイテクノロジー(コンピューター)はなくてはならない物になってきました。でも あまりハイテクに頼り過ぎると逆に恐ろしい危険性がでてくるかもしれません。我々がいかにうまく使いこなしていくかが今後の課題となってると思います。
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