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ウエルウェーヴ通信 第7号


2002326日発行


目次


4000Mの高さからジャンプ!! スカイダイビングにはまってます

福祉機器展・モーターショー感想これなら私も運転できそうだ〜福祉車両の前進を見続けて〜

その後のマッキントッシュG4 2話 見事に立ち上がったけれど・・・

ドクターFの自立生活ワンポイントアドバイス 第7回 Fのモノローグ

祝事務所開設! 5ヵ月経ちました駅より徒歩5分   珈琲アリ  委細面談

電動車イスの電車通勤単独珍紀行 第1回 日野から町田へどのルートがいいだろう?


4000Mの高さからジャンプ!!

スカイダイビングにはまってます

                         大石忠相



 ぼくは今までに4回死にかけたことがある。

 1つ目が生まれてくるときに、仮死状態で生まれてきたため、障害をおってしまった。

 2つ目は小学校低学年の夏、プールで浮き輪で浮いていた時、身体が不随運動をおこし、頭と足がまっさかさまになって水の中で意識が遠のいていった。逆さになっても浮き輪を離さなかったため、誰かが足を見つけて助けてくれた。それ以来、水の中で遊ぶことはできなくなった。

 3つ目は高校生の時、風邪をひいて高熱を出し、夢とも何とも説明しがたい、今でいう臨死体験をした。

 4つ目は他の施設で外泊して、長野へ行く途中、中央高速道路でトラックごと横転するという事故にあった。時速100kmを超える?スピードの中、よく無事でいられたと思う。

 その事故がターニングポイントとなり、今までやってみたかったバンジージャンプをやりにニュージーランドまで行き、40mの高さの橋の上から川へと向かってジャンプした。その時、「車椅子の人や身体が不自由の人で、身体1つになって飛び降りた人はあなたが初めてだ」と言われた。(ギネスもの・・・?)

 これをきっかけにスカイダイビングを始めようと思い、日本に帰ってからあちこちを探し、やっと見つけたのが埼玉県の桶川である。高さおよそ4000mから飛び下りるという話を聞いた時、一瞬足がすくむような気がした。しかし、やりたいという気持ちが先走り、勢いでやってしまった。それ以来はまって、1年に2度くらい飛んでいる。


福祉機器展・モーターショー感想

これなら私も運転できそうだ

〜福祉車両の前進を見続けて〜

日野療護園 吉原日出海

 私が初めて機器展にいったのは93年か94年頃で、その時初めて福祉機器展を知りました。それまではモーターショーで、福祉車両を出していたメーカーは、 トヨタ、日産、スバルの3社だけでした。あとはスズキが電動車椅子を出していましたが、年を重ねるごとに各自動車メーカーも、福祉車両の開発に乗り出してきました。

 昨年の福祉機器展では、ワンフロアーの半分を福祉車両が占めていました。福祉車両といっても色々ありますが、一般的なのは、車椅子のまま乗れるハンディキャブで、今では多種多様なバリエーションとタイプがあります。たとえばリフトとスロープとか、バンタイプとワゴンタイプなど、グレードによって装備やオプションを選べるのもあります。

 あとは自分で運転できる車です。ジョイスティックカーはアメリカで作られた装置で、シボレー・アストロに取りつけられた車が、日本に何台か入っているそうです。日本でもこういった装置を作っている会社が増えてきていますが、80年代の当時、サリドマイド障害を持った女性が足だけで運転出来る車を、トヨタかスバルかはっきり覚えていませんが、どこかのメーカーで一台だけ作ったのを見て、これなら自分でも運転できそうな気がしました。昨年のモーターショーで、ホンダのNSXにその装置を付けたのを見て感動しました。たぶんあの車は、元F1ドライバーのクレイ・レッガッチョーネのために作られた一台だと思います。

 福祉車両にまでF1テクノロジーが使われているということは、車社会の現代において、障害者または高齢者にとって、日本の交通アクセスを考える上で大きな前進だと思います。

ドクターFの自立生活ワンポイントアドバイス

第7回

Fのモノローグ

電車で見かけた風景

つい最近電車に乗っていておもしろい光景に出会いました。いまはこれが普通なのかという驚きと、なるほどと納得してしまう両面の思いが私の心の中で見え隠れしていました。その光景とは、友達同士と思われる3,4人の女子高生グループのそれぞれが違った相手とメールで話しているのです。ホームページのサークル上で親しくなれる、これがITなんだ、今はそういう時代なんだといわれれば、これが今の10代の人たちのつきあい方なんだと認識するしかありません。しかし彼女たちは、そばに友人がいることがあまりにも当然で、その存在をおろそかにしてしまっているのではないでしょうか。そして、必ずしも実際に会う必要のない人にばかり物事の考え方の共有を求めていくとき、すぐそばにいる人間の存在というのはその人にとってどんなものになるのでしょう。これが「便利なIT」の結果だと考えると私は少し寂しい気持ちになってしまうのです。

閉鎖的社会から新しい出会いへ

私が家族と離れて暮らし始めたのは子供の頃、体の機能改善を目的とした病院での生活でした。ドクター、看護婦といった職員、そして友人で構成されたこの社会においては、彼らが父や母、兄弟のようなものでした。そして、当時外部との交流もなかったその社会は、どうしても閉鎖的にならざるを得ませんでした。好むと好まざるとに関わらず、身体機能改善と義務教育を受けることを第一とした団体生活だったのです。そして私は10代後半からそれまでの家族、病院関係者といった保護下におかれた人間関係よりも、新しい人たちとの出会いを重視するようになっていきました。毎年同じように満開の花をつける桜の木も、葉桜となり、葉を散らして枝だけになり、次の年には新しいつぼみを膨らませる。一本の木でさえ年を経るごとに変化していると思ったとき、この閉鎖的な社会で保護されているままではあまりに自分が変わっていかないことに気づいたのでした。

自分で考え自分の言葉で発言

新しい人間関係、新しく仲間に加えてもらうということは非常に厳しかったことを覚えています。それは今までの自分自身を洗いざらい語ってこれからどうしていきたいのかということを具体的に述べていくところから始まりました。例えば自分が障害者に生まれてきて周りからどういう風に見られてどういう扱いを受けてきたか、親、兄弟との関係、社会的な立場といったもの、これから自分でどうしていけばいいのかという方向性までも、自分の頭で考え、自分の言葉で発言しなければなりませんでした。新しい仲間とはかつて行ったことのないところに一緒に出かけていきました。養護学校義務化反対闘争集会や東京都立府中病院闘争、成田空港開港反対闘争、全国障害者解放連絡会等々。集会が終わってデモ行進の際、なんだかよくわからないまま私の車椅子が一番前の方になり、機動隊と小競り合いになったことも覚えています。私の場合、10代後半から30代前半までのこういった活動の中で、閉鎖的空間に閉じこめられていた成長期を取り戻すことに必死だったように思えます。

自立生活を開始、大学でビラ配り

現在のようにアパートを借りて生活するようになったのは、20代半ばからのことでした。その「施設から出て自立生活をしたい」という思いは「社会の中で暮らしてみたい、自分自身を楽しみたい」という気持ちからでした。しかし、24時間介助が必要な私にとってまず準備段階としてやらなければならなかったのは、介助者を確保するというところからでした。では、介助者はどこに行けば確保できるか。地域の市民団体のボランティアサークルなどまわってみましたが、24時間の介助をカバーできるだけの人数は見つかりません。

そこで大学のキャンパスでボランティア募集のビラ配布活動を行いました。東京近辺の大学にはほとんど行ったように思います。25年前にさかのぼってそのころのことを考えると、学生運動華やかなりし頃の雰囲気は既に見る影もありませんでしたが、その余熱のくすぶりを感じさせる学生がわずかながら見かけられました。彼らを目当てにビラ配布の活動をしたのです。1000枚配ってやっとひとり関心を持ってくれるといった程度で決して効率的ではありませんでしたが、そのひとりが関わってくれるということが画期的なことでした。

学生と旅行気分で集会に参加

学生運動と障害者運動は相思相愛の中でした。「今度どこどこで○○集会があるんだけど連れて行ってくれないか」と要請すると、「いいよ。その代わりこっちの集会にも参加してくれよ」といった取引で始まる会話を笑いながら交わしたものでした。

かつて大学といえば、家が裕福で卒業したら博士か医者か事業家になるための養成学校で、いわゆる上流階級の子息しかいけないというイメージが一般的だったように思います。また卒業さえすればあとはどうにかなるという時代でもありました。しかし彼らはそういった風潮を自ら拒み、校内から変革を目指して大学解体をアピールしながら、最も低い階層におかれた女性や障害者と共存することによって反体制運動を繰り広げた歴史があるのです。

自立生活を始めようというときもここを手がかりに24時間介助のシフトを埋めることができたわけです。おかげで地方で集会があるときなど旅行気分で出かけたものです。

施設から地域へ、現在の福祉とは

20数年前障害者が介助者付の自立生活をすると、「そういうことができるのは、ほんの一部のエリート障害者だ」というような嫌味をいわれたこともありました。

当時、私たち障害者団体が東京都や厚生労働省に対して要求していたものは介助補償の確立と建物や道路のバリアフリー、障害者を施設から地域に帰していくこと、差別のない社会といったものでした。

この「障害者を施設から地域に返していくこと」は今現在行政機関で安上がり福祉、福祉切り捨てという形で押し進められているもので、20数年前私たちが要求していたこととまったく同じ内容であることには私自身戸惑いを隠せません。私が不満なのはこの件に関して障害者側があまりにも受け身的だということです。

とにかく障害者が入っていくことでお互いの存在に影響を受け、変化するだろう地域社会において、今まで厄介者、役立たずといわれてきた障害者は、新しい社会関係、地域活動の先導者としての役割が求められるでしょう。最近の求人誌では介助者募集の広告をよく見かけますが、こういう形で関係が始まっても、「お金(仕事)の切れ目が縁の切れ目」と淡泊に終わってしまうことが少なくないようです。障害者と健常者の関係も、仕事として介助する、されるという「報酬」を介在としただけのものから変わっていくべきだと思います。それは私たち障害者と、地域の皆さん両者の課題でしょう。

もし、あなたの横に障害者がいたら、気軽に話をしてみてください。今まで聞いたことのない話を聞けると思います。

今回はずいぶん長い独り言となりました。次回またお目にかかれることを楽しみにしています。

その後のマッキントッシュG4

第2話

見事に立ち上がったけれど・・・

大石忠相



3ヶ月たっても全く動かないG4に疲れはて、僕はしばらくほったらかしにしていた。そんな状況を見るに見かねてか、家族のものが知り合いの電器屋さんを紹介してくれ、相談したところ電器屋さんからすぐにOKがでて、見に来てもらった。電器屋さんは4〜5時間かけてG4の様子をうかがって帰り、その後FAXで「これとこれをインストールすれば大丈夫かなあ〜」と連絡があった。

 けれどその時期、園の文化祭やいろいろ重なり、僕の時間がとれず困ったなあと思っていた。やっと合わせた日程で電器屋さんに来てもらい、1030日に見事G4は立ち上がった。

 原因は基本的なところで、パソコンにUSBの認識をさせないで立ち上げていたことだった。(もしかしたらUSBかも、と電器屋さんには言っていたけれど・・・)

 しかし何といっても、一番の原因は説明書をなくしてしまったこと。

教訓:マニュアルは大事にとっておきましょう

               (おわり)



新連載  電動車イスの電車通勤単独  紀行

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日野から町田へ、どのルートがいいだろう?


日野療護園 二宮博之 



 私が生活している日野市・百草園駅の近くにある日野療護園から福祉開発研究センター(WDRC)の町田の事務所に通勤するようになってから早いもので4,5ヶ月が過ぎようとしている。

 初めのうちは月に2,3回であったが、今ではよほど天候が悪いとか体調が優れないことがない限り毎週になり、今ではしっかり自分のライフワークになってしまっている。

最初はいくら怖いもの知らずの僕でも少なからず不安はあったことも事実で、どのルートにしようかと随分迷ったものである。行き方として私が考えたのは思いあたるだけでも三通りぐらいのルートはあったのだ。

だいたい大別すると、時間は多少早いがやたらに電車の乗り換えが多いルートと、多少時間はかかるが乗り換えが一回で済むルートであったのだ。

皆様も経験があると思うが、私の今までの電動車イスの単独による電車乗車の長年の経験では、電車やバスの乗り換えは余程うまくいっても健常者に比べ相当時間がかかることは経験者ならお判りになると思う。ましてそれが二回・三回とたび重なると面倒くさいことの苦手の私にはとても長続きはしないだろうと考え、後者の時間はかかるが電車の乗り換えが一回のほうのルートを、迷ったが決断して選んだのだ。

そのルートは、京王線で京王八王子駅まで行き少し離れたJR八王子駅まで10分ほど歩き、横浜線に乗り町田に着くというものであるが、このルートだと順調に行って1時間15分、乗り継ぎが悪かったり少しモタモタすると1時間30分をすぐ超えてしまうのである。

その他にも、私は手がまったく自分の意志通りには動かない。であるから切符を買ったり駅に行くエレベーターに乗ったりする時はそこらを歩いている通行人に頼まなければならない。私の最大の長所はそういう時に気後れすることなく、極当然のことのように誰にでも声をかけられることで、最近判ったことだが他の一般の障害者はどちらかというと通りがかりの人に物事を頼むことを苦手にしている障害者が多いらしい。特に介助者を伴った若い障害者にその傾向が強いように感じられるのは、私が歳をとり過ぎたためかと思い悩んでいる今日この頃である。

一回目の話はこのぐらいにして、次号には通勤途中で出会った人達のことや面白かった出来事について話したいと思っている。(つづく)



祝事務所開設! 5カ月経ちました

駅より徒歩5分 珈琲アリ 委細面談

 昨年の10月に、駅から近い立地の良い場所に事務所を開設しました。

 私は7月からWDRCの事務局で働き始めましたが、そのときは藤沢さんのマンション宅の1室で仕事をしていました。事務所を借りる資金も貯まってきたので物件を探し始め、何件目かの物件でこの事務所に当たりました。地上1階で段差もなく、車椅子が何台か入るには都合の良い物件だと思いました。不動産屋さんと正式に契約をし、車椅子用にトイレを改修して開設の準備は整いました。藤沢さんの机はここがいいとか、私の机はどこがいいでしょうかなどとレイアウトを話し合い、いざ引越し! 1日で無事終わりました。

 全面ガラス張りの日当たりの良い事務所でよかったよかったと思っていましたが、お金を勘定しているとどうも落ち着きません。そこで窓ガラスに目隠しシートを張りました。ラジオを持ち込んで音楽を聴きながら、午前9時から午後6時まで快適に事務作業を行っています。

 開設以来5カ月が経ち、ルールに縛られない程度にルールも出来て、なかなか仕事のしやすい空間になったと思います。最近は窓ガラスに法人名のステッカーを張り、来訪者にも「おお、ここだ、ここだ」と分かりやすくなったのではないでしょうか。

 町田にお越しの折はお立ち寄りください。おいしいコーヒーなどご馳走いたします。

                                事務局 幸田夏根


当団体は「障害者、高齢者その他援助を必要とする人々の生活の充実と社会参加を促進し、社会のノーマライゼーションと相互理解をすすめ、広く公益に寄与することを目的」として設立し、2000年9月に特定非営利活動法人(NPO)の認証を受けました。

●福祉機器の研究・開発や情報・オピニオン紙『ウエルウェーヴ通信』の発行、2001年4月からは「障害者ホームヘルプサービス事業」を開始しました。

●在宅や施設在住の身体障害者がスタッフとして運営に当たっています。

●私たちは常に新しい仲間との出会いを求めています。この団体で活動してみたい方、自立生活を始めたいと思っている方、ご連絡待ってます。


会員随時募集中!!